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仕事や研究、コンピューターとの付き合い方

若いうちからメディアに出るということ(2)

前回のエントリーは「気鋭の若手社会学者」を腐しておわってしまったのだが、ホントに言いたいのは別のことだ。現代の社会は「デビュー」が容易だ。ネットで面白いブログを書いて人気を集め、新書の一冊や二冊も書けば時の人だ。「デビュー」するための条件はいくつかある。ひとつ目は肩書きだ。「元外資コンサル」でも「元通産官僚」でも「東大卒ニート」でも「合コン大好きCA」でもなんでもいい。とりあえず世の中の耳目を集めるインパクトがあれば十分。あるいは、面白いことをいうことだ。なんでもいいのだ。「日銀総裁をクビにすれば日本経済はよくなる」でも「官僚は馬鹿ばかり」でも「丸山真男をひっぱたきたい」でも。エキセントリックであればある程いい。件の彼であれば、「若者をあきらめさせろ」だ。なんという刺激的な科白。これを考えた編集者は天才だと思う。SFC→東大院という絶妙な肩書きと煽情的なフレーズ。二つを兼ね備えた彼にはメディアはわんさか寄ってくる。テレビに出る、ラジオに出る、雑誌のインタビューに出る、講演会、政治家の勉強会、その合間に原稿を書きまくる。忙しくなりだんだん薄味になるがそれでも書き続ける、しゃべりつづける。いい気分になってきたところで、メディアは去る。飽きられる。彼の時代が終わる。いくばくかのカネを手許に残して。
いや、いいんですよ。外資コンサルで芽が出なくて独立した人とか、外局の部長を経験して天下って退職勧告を受けた人とか、人生先が見えてきてこれまで培ってきた経歴や人脈のバケツをひっくり返して勝負をかけるってのは戦略としては間違ってない。それによってもともとの所属組織の人間から忌み嫌われようがその業界自体の評判を落とそうが、儲かればいい。でも、20代、それもまだ研究者としても組織人としてもひよっこが「東京大学大学院生」の肩書きとチープな売り文句で勝負をかけるのは別。彼のことはもうどうでもいいが、同じようなことをしようとする人がいたら全力で止めたい。もうちょっと修業してからにしようと。世の中には文化人とか教養人とか批評家とかコメンテーターとかエッセイストとか、要は組織に属さず、弁護士や投資家のようなプロフェッショナルでもなく、研究者でもない確たるバックグラウンドのない人間が大勢いる。仮に20代で特段の学問的業績もなく資金、資格、経験、人脈が乏しいままデビューした場合、メディアに吸いつくされた絞りカスが行きつく先はそこしかないだろう。心機一転アカデミアでやり直すことはできないのか?考えてみよう。パンをかじりながらハジパイのジャーナルに載せるために睡眠時間を削って論文を書いていたときにメディアに名前を躍らせながらうまい飯を食っていた元同期に対する元院生たちの視線はどのようなものだろう?学位もないのに「学者」面して世間に「社会学」を安く売り歩いた元弟子に対する教授の思いはどうだろうか。もはやそこは象牙の塔ではなく要塞だ。近づくだけで殺されるだろう。
世の中には「デビュー」のチャンスはいくらでもある。「新書を書きませんか」「テレビに出てみませんか」あるいは「選挙に出ませんか」。適度なルックスと肩書がそろった若者にはそういう甘言がすぐ舞い込む。奇貨居くべし、という言葉はある。だが、いつ自分を売るのかは冷静に考えてほしい。一度売りに出したら値はそこでついてしまう。そしてその値は駄々下がりする一方だ。だが、20年、30年寝かせれば最高のビンテージになって高値で売れるかもしれないのだ。そんなことを思った。