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仕事や研究、コンピューターとの付き合い方

俺って文化人類学者だった

幼い時からなにか文章を書くのが好きだった。それも空想とかではなく調べたことや観察、体験したことをベースになにか真実っぽいものをのたまうのが自己肯定感を上げる。特に好きなのは自分の文章を読むことだ。なんならこのブログだって自分のために書いている。後で読み返して名文だなと一人ほくそ笑むのだ。なんて気持ちの悪い。

さて、ここ数年自分の中に大きなテーマがある。それは、データ主義からの離脱だ。

データは面白い。分布を見たり平均を見たり、相関や回帰など統計モデルで因果関係らしきものを探したり。しかし、自分のやってきたことは本質的に何かを発見したり何かを変えてきたことがなかった。データ分析ではなくデータ遊びだったともいえる。

データ遊びは、所詮誰か他の人がつくった理論や仮説を検証したり、なんらかの不具合や不整合を見出したりするだけの、表層の行為だ。本質的に何かを変える、つまり意思決定を変えるためのデータ分析は、結局のところ、これから何が起きるか把握し、それを望ましい方向に持っていくためのアクションを見出し、それのインパクトを予測することにつきる。

そのためのABテストだ。RCTだ。正しい。しかし実験主義者は「何をバリアントにするか」を見出すことはできない。それは天から降ってくるという想定をしている。それではだめだ。バリアントを見出すためには、未探索な空間における対象者の行動を予測する必要がある。これは非常に困難な行為だ。データ主義者にとっては禁忌とも言える(根拠のない外挿)。

しかし、本当に世の中にインパクトを残している人間は、外挿を恐れない。なんなら直感でそれを成し遂げる。ツイッターの投稿がバズったからそれにもとづくプロダクトを作って天下を取った人もいる。

話を最初に戻す。大学に進む前の自分はデータ主義者ではなかった。データを触るすべを知らなかったし、世の中の平均よりも個々の人間の詳細な行動や心理を把握したかったからだ。そのため、自分の取っていた行動は、とりあえずどこかのコミュニティに入っていくだった。 誰も知らなくてもイベントに潜り込んでは誰が何を語っているかを見聞していた。就活の時も、決めた軸はどういう情報がとれるかだった。

そうした中で、さまざまな過程を経て徐々にデータ主義に取り込まれていったが、ようやく目覚めた。データを見ていてもなにもわからない。データは内挿は得意だが外挿は得意ではない。しかし、時間という力が常に我々を未知の領域に推し進める。

そうして、悩んだ挙げ句、ユーザー体験やデザイン、社会学、そして行き着いた先は文化人類学だった。20年ぶりのレヴィストロース。 侵入して観察し考察する。この、シンプルな20年前の手法が自分の中では黄金律だった。 データ主義を捨て文化人類学手法を取り入れるのが今のテーマだ。というか、20年前にすでにやっていたことを再度やるだけだ。