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仕事や研究、コンピューターとの付き合い方

学問の価値

あっちのブログに書いてもいいんだけどつまってないのでこっちに。
ツイッターでプロフィールに「現実経済には興味ありません」って書いてた東大経済学部の子がいた。もちろん自分も経済学徒のはしくれとしてゲーム論とか数理モデル系の方に関心があって日本のGDPがいくらかも知らない研究者というのがありうるっていうのは頭では理解する。理解するんだけど、どうにも引っかかっていた。で、やっぱりそれって変じゃないかという結論になった。現実経済について深く知ろうとか働きかけようとしないという超然とした態度でいること自体悪いことじゃない。ただ、現実問題として研究者として生きていくためには、大学なり研究機関なりから給与やグラントをもらわないと生きていけない。あるいは研究した結果をそのままゴミ箱ないしは自分の引き出しにしまうのでない限り、人に対してその価値を説得して、なんらかの雑誌に掲載してもらうなりする必要がある。もちろん掲載にはお金がかかる。興味がないはずの「現実経済」に必然的にがっちり関わることになる。「関わってる」けど「関心がない」っていうのは状態としてないことはない。ただ、現実経済と関わりながらそれに対しての「どうしてこうなっているのか」とか「どうしたらよくなるだろう」といった知的行為を封印するというのはやはりとても不自然なことなのではないだろうか。そもそも研究というのはそうした素朴な知的作用から着想を得ていくものではないのだろうか。

それでもうひとつ最近思ったことで、ある研究の価値を世間一般に説明するとき、例えば企業や研究機関からグラントをもらうときに、一般的には「役に立つ」ということを強調すると思う。しかしながら、実際アカデミアの中で「価値が高い」とされるのは、むしろ現実との関係というよりかは、学会におけるそれまでの研究との対比において「画期的で面白い」ものなのではないだろうか。もちろん役に立つ研究を軽んじるわけではないけど、雰囲気として「面白い」方が価値が高い感じがある。でも、その価値の起き方というのはアートに近いと思う。「この絵は面白いね」というのと同じかたちで「この研究は面白いね」という評価がくだされる。しかし、そうしたアカデミア内部での評価の仕方と外に対するときの説明の仕方が食い違うこと自体にやはり違和感がある。それこそ、学問の自由だとか大学の自治だとかいうイデオロギーの話になるのかもしれないが、やはり、現実社会に必然的に組み込まれてる以上、そうした外部の目というものがアカデミア内部で軽視されるのは筋が通らないのではないだろうか。よく近年の経済学に対する批判に、数学的に高度になっているだけで役に立たないというものがある。その言説にもろ手を挙げて賛同するものでもないけれでも、そして、他の研究者が世の中への還元にフォーカスを絞れというわけではないけれども、自分は、実務出身の人間として、常に世の中とのリンクを重視していきたいと思う。そもそも、研究それ自体のアート的面白さというものが、研究に没頭させるほどの真剣なかたちでとりくめるほどのインセンティブにはならない。それよりも、最終的なアウトプット、それは学術誌ではなくて実際の政策決定の責任者や国民に対するインパクトこそが、自分の唯一のインセンティブになっていると思う。アダムスミスやケインズたち大経済学者はそういう発想があったんじゃないかなあと思うが、どうなんだろう。


1/10
書き直した