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仕事や研究、コンピューターとの付き合い方

自分への期待

ネットが発達したせいか、お笑いにかぎらず一発屋みたいな人が最近多いと思う。特に、若手で自分の実力で何か達成したわけでもないのに、学歴や職歴を利用して処世訓のような本を書いたり業界のウラ話を書いたりしてるうちに、なんとなく「若手の御意見番」みたいな感じでネットのコラムやら審議会やらに呼ばれる人が最近増えているような気がする。そういう人は、そのうち選挙に出たりテレビに出たりいろいろするわけだけども、なんとなくそのピカピカの経歴とは裏腹におっちょこちょいな人生をたどっているように感じる。

それって結局、自分への期待が高過ぎるのではないかなと、思ったりする。全然関係のない話だが、プロ野球選手やお笑い芸人といった成功すれば相当稼げる世界の人々というのは、小さい時にそうしたピカピカの経歴を自分とは別の世界のものとして切り離しているわけで、特にその道で成功した人は、飽きようが辛かろうが、何十年も同じことを脇目もふらず追求してきている。彼らは自分ができないことがあることを認識しているから逆に浮気せずにそこまで来ているのだと思う。
翻ってピカピカなのにおっちょこちょいな人々は、そうした経験のないまま自分の能力を真摯に計測することもなく、なんとなく文筆、メディアへの露出、選挙などといった水物の世界に流れてしまい、準備不足や見込みの甘さのために迷走し落ちぶれてしまう。
もともと、自分にはこれしかできないというものがあれば、そうした迷走はなかったのではないかと思う。
歳とともに、通常は、自分の能力の限界や平凡な未来が見えてくるものだが、彼らはその平凡な未来を受け入れるほど自分に失望していないのかもしれない。もちろん、優秀な人材が外部から与えられた役割だけを全うすることだけを考えていると、社会は停滞してしまうのだが、ふわふわした未来への希望は、メディアや選挙といった世界でいいようにコマとして扱われてしまっているような気がする。
メディアにせよ、選挙にせよ、常にフレッシュさが求められる以上、そうした需要側の論理はわかるのだが、しっかりと自分のキャリアに道筋を付けていれば、無駄に時間を費やしてしまう可能性の高い、そうした世界に足を踏み入れる必要もないのではないか。
一旗揚げたいという精神はもちろん悪くないものであるが、メディアや選挙というのは安直かつリスキーという非常に危険なものである。自分自身を商品にする以上、準備が少なくてもいいのだが、参入障壁の低さは競争の激しさを意味する。
その商品自体の値というのは自分ではよくわからない。というか誰もわからない。しかし、世の中には値付のしっかりした世界というのはいくらでもある。そうした世界のほうが、試験エリートにはやりやすい世界であろうし、準備もしやすいしリスクも少ない。同時に低い値付けを受け入れる勇気が必要でもある。しかしながら、値付けが一夜にして暴落するような世界にいるよりはよっぽどいいのではないかと思ったりする。