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仕事や研究、コンピューターとの付き合い方

成長信仰

やる気がでないので適当に最近の考えを取り留めもなく。
「成長」という言葉は嫌いだが、どうやったら「成長」できるのかというのは「成長」信仰に少なからず毒されている自分は常に気になっている。「成長」という言葉が嫌いなのは、恐らく「成長」という言葉が「何らかの量の増加」という単純な現象を指し示しているのに対して「自分は成長した」という人たちはそれを大げさに捉えているからだろう。例えば、難しい仕事をこなしたとか、偉い人のいい言葉を聞いたとかそういう機会に「成長した」という発言がなされることが多いが、明確に「経験した仕事が増えた」とか「自分の中の『ありがたい言葉』リストが増えた」という物差しの定義とその計測があればいいが、なんとなく「俺は/私はエラくなった」という意味合いが帯びていることが多いのが気になる。
RPGでレベル上げに拘る人がいるが、「成長した!」を連発して悦んでる人はこういうタイプなのではないかなと思ったりする。例を上げて言うと、例えば難しい上司や現場で仕事をやりきったときに「辛かったけど成長した」という発言がなされることがあるが、これは往々にして肉体的精神的な疲労・苦痛の代償の存在を指摘しているだけであって、なんというか冷静に考えれば体よく使われた上に正当な対価をもらえない奴隷のような存在が自らの惨めさを否定しているだけのような気がしなくもない。
もっと言ってしまうと、そういう理不尽環境にいなければ得られたであろう他の能力向上やスキルの獲得の機会を逸しているという現実から目をそらしているというか、なんというか逃げっぽいなという感じがある。
さらに言うと、例えばそうした環境において過ごした時間、得た経験は当該業界の常識や考え方に染まり自らの変容(必ずしも前向きではない)を招いてしまっている可能性もあるわけで、もはや冷静に自らを考えられなくなった人間の自己肯定としての「成長」というのがあるのではないかと思う。
こういうことを考えるのは、日本のある種ブラック的な労働環境とアメリカの純結果主義的なアカデミズムという両極端の世界を体験したから言えることで私の「成長」といえるであろう。